小さな小さな廊下のギャラリー
このような狭いギャラリーですが、照明もつけて、もう少し明るくします。私の紹介をさせて頂きます。
小さな頃から、登校拒否児で休みがち…学校とゆうものが嫌いでした…母に手を繋がれ、階段を毎日上がる練習をしながら、たまに、階段を上って、門をくぐると、何故か、教室にいけてしまうのですが、行くまでが困難で、行きたくないのが、体に現れ、熱が出たり、お腹が痛くなったりして、そうして中学卒業まで、行ったりいかなかったりを繰り返しました…母は父が酒を飲むのでよく隠れて台所で泣いていました…私はいつもお母ちゃんにお祈り、お祈りといっていたそうです。
高校はやはり、勉強すらまともに出来てないので、落ちて、何とか、職業訓練校に入れましたが、5ヶ月しか持ちませんでした…
やめてすぐに船の修理をするヤンマーにはいりました、しかし、5ヶ月目にギックリ腰をやってしまい、挫折しました…そこの奥さんに母は言われたそうです…(あなたの息子さんはどこに行ってもダメだと言われたそうです)それから、引きこもり、18でケイソン、ゆわゆる、堤防を作る仕事に就きました…体が出来ていない為、30キロの父の漁師の縄を肩に担いで体つくりを1ヶ月しました…むろん筋肉痛はありませんでした、しかし、仕事が下請けな為、仕事がなくなる時があり、次の仕事があるまで、家で引きこもり、また始まると行ってました…そんなある日、ケイソンの四つあるうちの一つに落ちました…七メートルありました…しかし、四つのうち、そのケイソンにだけ、水が1.5メーターくらいあり、腰から落ちましたが、生きていました…夕方近くで、上の方に早く帰る様にゆわれて家に帰り、お母ちゃんに七メートルから転けたといい、とりあえず、朝に風呂早く沸かしといてと言っていたので、風呂にはいりました…しかし、そこから三日間全身打撲で寝たきりになりました…整体に行くと腰の骨がずれてますと言われました…そこから、仕事に行けなくなり22歳まで引きこもりました…
22歳のある日、車でもとってみようかなと母親のまえでゆうと、姉の旦那さんが教習所の先生だったので、知らずに電話して予約していました(^◇^;)そこから、朝からガリ勉して、何とか、車の免許を取りました…
そこから、母と軽の箱バンを買って、行商にいく決意をしました…姉の紹介や新規のお客さんの家に飛び入りして、お魚いりませんか?などと、声かけしながら色んな所に父の魚や魚屋さんで分けてもらったりしながら8年くらい行商をしました、途中であることをきっかけに、一人で行商に行く様になりました…そして、30で、初めての社会人として、スーパーの魚屋さんに入れました…頭が悪いのに入れたのは、魚がすぐに切れるとゆうのが一番だったのと、社長さんも若い頃にバナナの叩き売りをしていたとゆうのが、私を会社に入れてくれたキッカケでした…楽しいこともありました…でも、辛い事の連続でした…計算ができないのです…今思うと良く入れたなとゆうのが一番思う事です…可愛がっても貰いました(//∇//)しかし、優しく、時に厳しく、子供を育てる様にしてくれたチーフが変わり、地獄に変わりました。辞める決意をしたのですが、前の店長とチーフが来てくれて、三時間説得してくれました…その頃には田舎の診療場で自律神経失調症と診断され薬を服用していました。
私は説得に応じて、実家から離れた寮で暮らしながら、5ヶ月頑張りました…そこでは、薬は飲まないと決め頑張りましたが、パニック障害まで出てしまい、実家からまた通える店に変えて貰いました…すでに病院はメンクリに通っていました…
その日から一年半頑張りましたが、優しかったチーフが新しい子に変わり、若いチーフに、もし、ダメなら引導渡して構いませんと最初に伝え、怒鳴られたりするのが、もう無理になり自分から会社を辞めました…その頃にあったのが今の妻でした、その頃の彼女には、心の芯まで癒されました…そして、芽生がお腹にいるのがわかって、妻の息子を養子に迎え、父親になる決心をしました。これから輝(ヒカル)の父親になるけど、お父さんやったり、お兄ちゃんやったり、おんちゃんやったり、色んな風に接するからと伝え、赤ちゃん産まれても、寂しく思いなよ…小さいから手がかかるから、輝を嫌いになったわけじゃないからと言い聞かせ、近場の魚屋に就職しました…しかし、痛み止めか、風邪薬かわからないけど、謎の発疹が体を埋め尽くし、1ヶ月ステロイド漬けになりました…そこから、退院しても体が薬の副作用で弱り、立てり続けることさえできず、魚屋を辞め、ハイエースを売り、そのお金で生活しました…赤ちゃんの芽生を育てました…毎日、運動に芽生をうだき、廊下を行ったり来たりしながら、寝かしつけ、愛情一杯に育てました、そして、一年過ぎた頃に仕事を探し、色んな職に就きました、老人ホームの飯炊き、養殖魚の仕事、コンタクトセンター、ゴルフ場の整備、人間関係が変わるごとに心は壊れていき、ヘルニアまでおこし、鬱に入り、寝たきりになり、闇をさまよい、芽生と遊んであげる事すら出来なくなり、気がついたら障害者二級、軽い知的障害もあり、いままでの生きづらさや人間関係、理解できない事など、パニック障害、不安恐怖症など、薬が変わりひどい鬱が去っていき、そこから、詩をブログに載せ始め、twitterを通して、運命の歯車が回り始めました…今は仕事はプロの画家として日夜私なりの画業に励み、色んなSNSの皆さんや福祉の方達の温かいお力で今があります…もう歯車は止まりません、役場を通して、地域から、世界に羽ばたいて見たく思います…私を救ってくださったtwitterの方やFacebookの方々、詩人の詩村あかねさんや早坂類さん(オーナー)に改めて感謝したいと思います。皆さん、こんな私ですが、これからもよろしくお願い致します…
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